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ハーシェルの独り言

グラブルや雑談等、しがないぴよっぴよです。

ゆかりさんと学ぶ哲学用語『無知のヴェール』無知を纏う事によって見えてくる真理【VOICEROID解説/哲学】

 

 

youtu.be

 

 

インテリ市民の皆様御機嫌よう。

さて、今までに様々なリベラリズムの思想についてお話してきましたが、
今回はそれらにまつわる原典的で有名な思考実験でもある哲学用語「無知のヴェール」
について解説していきたいと思います。

「無知のヴェール」とは、アメリカの政治哲学者ジョン・ロールズの著書『正義論』の
中で展開された仮想的な概念のことで、現代リベラリズムを考える上での基礎的な概念の
一つでもあります。ロールズはこの考え方を通して、社会における公準たる『正義』
をいかにして実現するのかを考えました。

ではその『無知のヴェール』とは一体どのような概念だったのでしょうか?
ロールズは著書『正義論』の冒頭において、まず『正義』そのものの基準を
普遍的な形で設定できるのかという問いを打ち出しました。

そしてそのようなものを設定するためには、この無知のヴェールと呼ばれる概念的な
ヴェールを人が被る事によって『原初状態』と呼ばれる状態にする必要が
あるという独自の仮説を打ち立てます。

この原初状態というのは、例えば人が一斉に見知らぬ異世界に転生して、地位や財産などに
に関係なく全員同じ前提から新たな社会や文明を一から作り上げる時、
その社会における公準的な『正義』は果たしてどのようにして
生まれ築かれるのか。というような想定をすることを意味しています。

そして、無知のヴェールを被るというのは、人が自分の社会的・経済的・自然的な条件を
知らない状態で、正義の原理を選ぶという仮定のことで、これによって人は自分の
利害や偏見に影響されずに、公平な判断ができるというものです。
この無知のヴェールを被った状態、つまり、自身の立場や地位、財産の
状況が分からない原初状態の人間ならば、人は初めて真の公準たる
『正義』について考える事が出来るのだと言います。これが無知のヴェールに関する
大まかな内容です。

そしてそのような状態においては、ロールズは誰しもが『正義の二原理』を選ぶはず
はずであり、それがその社会における基礎的な『正義』の基準であると主張します。

『正義の二原理』とは。第一原理・各人は、他の人々の同様な自由の図式と両立する
平等な基本的自由の最も広汎な図式に対する平等な権利を持つべきである。
という対等原理と。
第二原理・社会的・経済的不平等は、それらがあらゆる人に
有利になると合理的に期待できて、全ての人に開かれている地位や職務に付随する、
といったように取り決められているべきである。という格差原理。
この二つの原理から構成された二原理です。

小難しいですが要するに、第一原理は「言論の自由や信教の自由などの基本的な権利が、
全ての人に平等に保障されるべきであるということ」
第二原理は「社会的・経済的な不平等は、最も恵まれない人々の利益になるように
調整されるべきであり。また、機会均等の原理は、社会的地位や職務に就くためには、
全ての人に公平な競争の機会が与えられるべきであるということ」
という風に言えます。

これらを踏まえてロールズが言いたいことは、簡単に言えば
自分の立場も財産も知らない状態で『正義』を考える時って、
必ずみんなが納得する正義になるよね。ってお話な訳ですね。

しかしこの主張は、一見普遍性を伴ったような意見に思えましたが、誕生の地アメリ
では多くの批判に晒される事となりました。この主張を批判した主な立場としては
リバタリアニズムとコミュタリアニズムの二つの立場が挙げられます。

リバタリアニズムの立場からの批判として、正義とは「個人」の不可侵な所有の権利
にのみ存在すると彼らは主張し、個人の所有の権利を社会的正義たる基準値として
設定しておき、その個人間における正当な財のやり取りについてのみ、財の所有
についての正しさを規定する『権原』(法律行為に正当性を持たせるの原因)が
作られると考えられています。

この事から、ロールズが示唆するような不平等を解消する行為、即ち「持たざる者」へ
の富の再分配は、個人の正当な所有の権利、「権原」に対する国家からの不当な
侵害であると考え、正義に反するものとしてリバタリアニズムに批判されました。

前にも説明したように、リバタリアニズムは個人の所有権や自由を最優先する立場
なので、富の再分配は個人の権利の侵害だと考えます。

続いてコミュタリアニズムの立場における批判としては、個人に関する価値観の相異
が主に上げられていて、ロールズの考えでは個人は社会から独立していると
考えられており、思想や価値観を選択して行動できるとされているのに対し、
コミュタリアニズムは、価値観は共同体においてのみ規定されると考えていて、
そのような共同体的価値観から離れた個人など存在しないのだと主張しました。

コミュタリアニズムは共同体の価値観や伝統を重視する立場なので
無知のヴェールは現実離れした仮定だと考えます。

以上、哲学用語『無知のヴェール』についての概要でした。

ふむふむ、なるほど。確かに無知のヴェールがあればポジションに囚われない万人の
為の議論が出来そうですよね。日夜討論番組で繰り広げられるような不毛な言い争い
を繰り返す論客達には、ぜひ無知のヴェールを被ってもらいたいものです。

まぁその過程が結果として新たな結論における有意義な動機付けとなるなら
それはそれでいいのですけども。結局はアウフヘーベンです。皆さんアウフヘーベン
をしていきましょう。

それでは今回はここまでです。ご視聴ありがとうございました。お疲れ様でした。

 

 

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【グラブル】初めてのルミナス武器、フレズヴェルク取ったみた【ルミナスシリーズ/フレズヴェルク】

 

 

初めてのルミナス武器、なぜ取得したか

まぁ見ての通り、結構ゴムーンが溜まってたし、あと最近グラブル自体がきな臭くて、わんちゃん近いうちにサ終するか、シャドウバースみたいに権益引き継ぎ不可能の続編が発表されるような危機感があったので、ラストエリクサーになるくらいならここいらでパッーと使っちゃおう!という意気込みで交換した。

 

あとはまぁ、ムゲンHLがすごく楽になるのと、単純に武器として楽しいというのがある。めちゃくちゃ強い。

 

性能と149、150問題

 

まぁ余談はさておいて、肝心の性能だが

 

 

まぁ詳しい仕様については攻略サイトを見てもらうとして、ざっと所感を述べる。

 

 

 

 

 

滅茶苦茶強い

 

いやぁ強いですよ、この武器は。

 

そしてムゲHL周回がとにかく快適。今まで砂目的で周回してたのは最初シエテ→ディアスポラとやってきたが、まぁーとにかく一番ストレスなく周回出来ますね。ムゲンは、

あと早い。

いや待て、確かに批判の気持ちは分かる。地雷レリバ多いとか、剣豪が動けないとか。自発の失敗率も高い。それは痛いほど自分自身も身に染みてきたことだ。

なぜならつい最近まで自分も火で天元に行くために火を強化していて、剣豪でムゲンをずっと周回していたのだから。その辛すぎる剣豪周回の上で火のドラポン回帰を遂行したのだ。

 

 

批判の気持ちは分かる、だけども。だけどもだ。かといってだ。あまりに剣豪編成で救援は苦行過ぎるのではないだろうか。

三連続ジャイアントバン、レリバの残したカスみたいな貢献度を啜る屈辱的日々。これはもううんざりなんですよ。

そういう日々から解放されたことが何よりもこの武器を取得することの利点だ。

 

話を元に戻すとして、この武器を語る上で149、150問題というものがある。

 

これはフレズヴェルクのスキル構成に因んだ問題で、これは要はなにが問題になっているのかというと、この第三スキルに関してが主な争点だ。

 

だがこの争点はもはや古い話になりつつある、なぜならそういう議論が盛んにあったのは水古戦場前、例の約定スキル持ち武器のガブリエルが到来する前の環境の話であるからだ。

 

フレズヴェルク一本で約定スキル分の与ダメージを備えているが、約定武器がきた場合、この第三スキルが連撃率100%ダウンという物のせいで、ダメージ上限も上がるとは言え、与ダメは同枠な為にかなりの激重デメリット武器に変貌してしまう。

約定スキル武器がくるのなら、フレズヴェルクを150にするのは悪手なんじゃないのか?そういう議論があったわけだ。

 

確かに149に寸止めすることで、理論的に最高速度で討伐する猛者も水古戦場にいたが、それでも割と限定的な運用で、多くの一般プレイヤーにとって149に留めて置くメリットは殆どないように思える。

 

もちろんしっかりした運用があるのなら別だが、150にすること自体は別に弱い行いではない。自分は幸いにもガブ武器を所有してなかったので、ある意味この武器一本で武器枠の圧縮になったし、それに単純に火力が出る。それと別に連撃率が大幅に下がるとは言え、水着ルシなるもので確定TAをなんやかんや付与する事はできるし、そこまで致命的な仕様というわけでもない。

 

故に私はフレズヴェルクを150にした。ていうか単純にゴムーン150使って主人公にランダムヒット付与するだけの武器にするってのはそれこそコスパが悪いように感じた。爽快に気持ちよく快適ゲーにするのなら小難しいことを考えることなく150にすれば良い。

 

終わりに

ちなみにソルジャーでの運用も強力だが、面倒なのでバレット集めはしていない。ヒヒ掘りは別の編成で十分代用できる。問題はムゲンHLとどう向き合うか、私にとってはそれだけだ。メイン用のゼノ銃も何故か攻撃バージョン作ってなくて、そういった諸々の要因が今回のフレズヴェルク取得に繋がったとも言える。

 

ということで自分はムゲHLに通う→天元に挑む

という導線が出来てたので、迷いは少なかった。大事なのは、あなたが何をしたいかだ。それでいて様々な選択肢の中、フレズヴェルクもそれなりに快適だよー、という話でした。では良きグラブルライフを。

 

 

 

 

 

ゆかりさんと学ぶ哲学用語『アウラ』オリジナルの持つ唯一的な空間と時空を含む権威【VOICEROID解説/哲学】

youtu.be

 

 

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アウラとは何か?ベンヤミンの哲学を考える


こんにちは、今回は哲学用語の『アウラ』について解説していきたいと思います。
この言葉は、最近話題の漫画『葬送のフリーレン』に登場するキャラクターの名前でもありますが、
実はドイツの文芸批評家であり、思想家でもあったヴァルター・ベンヤミンの著書、「複製技術時代の芸術作品」
や「パサージュ論」などの論考で提唱されていた美術的な用語としての概念でもあるのです。
ではアウラとは一体なんなのでしょうか?ベンヤミンは「複製技術時代の芸術作品」のなかでは
次のように彼は語っていました。
―――アウラとは、一体何か? 空間と時間の織り成す一つの奇妙な織物である。
つまり、どれほど近くにあろうとも、ある遠さの一回的な現れである。
夏の午後、寛ぎながら、地平に連なる山並を、あるいは寛いでいる者に影を落としている木の枝を
、目で追うこと――これが、この山並のアウラを、この木の枝のアウラを呼吸することである
実に文学的難解な表現ですが、彼はこの言葉について明確な定義を示していません。
なのでここからは考察ですが、要するにアウラとは、その存在がその時点において持ちえる時空的かつ空間的な
唯一無二の存在性、権威的な表現のことを指していると推察できます。これを更に要約した定義としては
、概ね『オリジナルの存在が持つ権威性』と言えるとここでは考えます。
つまりは、特に芸術面における『アウラ』とは、複製技術によって失われたかつての旧来的な
性質をもつ芸術についてを総称を指す言葉として使われるものになります。
そしてベンヤミンは、現代の複製技術によって芸術作品の一回性が失われていき、やがては
アウラが消失してしまうと考えていたようですね。
そのように要約していけばかなりこの言葉の本質が見えてくるような気もします。
今、この時における画像生成AI問題についても、今日に至るまでネット上では盛んな議論が
交わされていますが、まさしくこの『アウラ』という言葉はその芸術的な問題性を指摘
しているようにも思えます。
生成技術が齎したクリエイターたちの懸念というのは、複製技術が生まれた時代から
同様に憂いられてきた共通の倫理的な問題だったんですね。
ということで今回は哲学用語『アウラ』についてでした。
私たちは日々の目覚しい技術的な進歩によってあらゆる領域のアウラを消失させています。
それはもはや人類が進化していく上での過程であり、もはや必然な現象でもあると
言えるのかもしれません。
しかし、だからこそアウラを知覚できる人間の精神的な能力を、このまま手放しで失うわけにも
いかないとも思います。なぜならアウラとは、その物を作り上げる存在を敬い、人々に倫理的な
反省とリスペクトを促す経験的な効果が秘められていると思うからです。
どんなに技術が進捗し、あらゆる芸術や物が手軽なもになろうとも、決してアウラを忘れる事
なかれ。という思いで社会を歩んでいきたいものですね。
では今回はここまです。ご覧いただきありがとうございました。お疲れ様でした。

 

【ゲームレビュー】Atomic Heart/これは...パズルゲームかな?

 

概要

このゲームは、ロボット技術が異様に発展した架空のソ連時代のロシアを舞台とするSFアクションゲームである。ネット上で色々きな臭い物議をかもしだしていて、様々な話題が広がっていた。ウクライナ政府からこのゲームの発売を停止するよう求められたりなど、そのおかげでこのアトミックハートのタイトルを一度くらい耳にしたことがあるだろう。

ウクライナ政府が『Atomic Heart』販売停止を正式に要請…宛先はゲームを販売するValve・ソニー・MS(Game Spark) - Yahoo!ニュース

セクシーな双子のロボット...。そして異様な世界観、気味の悪い機械達。そんなビジュアルに惹かれた人たちにはたまらない作品だろう。そして私も、その一人であった。

 

プレイした感想/始めに難易度など

総プレイ時間はsteamで見る限りは凡そ33.3時間である。難易度はノーマル(ちょくちょくメニュー画面で放置してた時もあるんだけど、それって含まれるのかしら?)

二種類あるエンディング分岐を迎えたがクリア後の要素は特にないらしく、それまでのステージを自由に散策できる程度であった。

全体的な難易度としてはそれほど難しくはない、むしろノーマルだとFPS慣れしてる人なら少し簡単すぎるくらいかもしない。ホラー要素そこまで強くはない。

後述するが、このゲームは能力関連の効果が非常に強く、ボス関連の敵に対しても殆ど困難に陥る状況はない。エネミーとのバトルに関しては武器や能力などの育成をしっかりしていれば詰まる場面など殆どないだろう。詰まるとすれば、それはパズル要素だ...。

 

アクション偽装のパズルゲーム

このゲーム、ごりごりのガンアクションゲームと見せかけて結構なパズル要素が盛り込まれたパズルゲームである。

 

場合によってはこのパズルのせいで一生メインストーリーを進められない人がいるかもしれない、早急に救済要素を設けるべきだろう...。

かくいう私もかなり苦労させられたが、慣れればなんとかなる...と思う。

 

魅力的なキャラクターが勢ぞろい!主に機械が

主人公の相棒役として冗談をよく言う賢い喋るグローブや、痴女のような言動を取る赤いポストみたいな機械、主人公をいらつかせる数多の機会達、彼らとの会話を経て主人公の脳血管がいつかはちきれるのではないかと心配になるが、非常に魅力的なキャラクター達が出揃っている。また主人公も共産思想に紅く染まったキャラクターであり、我々と価値観が大きく異なっている点も刺激的なポイントだ。

 

内容のボリューム

ボリュームはまぁまぁと言ったところ、いわゆるサイドクエストのようなものはほぼなくてメインストーリー一本道という感じである。その代わり試験場と呼ばれる場所が存在していて、武器のアタッチメントなどを解放できる施設がある。これがまぁまぁ面倒くさいステージばかりなのだが...、頭の体操にはうってつけって感じだ。

 

だが正直個人的には物足りなさを感じざるをえない、武器のバリエーションや能力。エネミーの種類。レベルデザインなどが全体的に中途半端な印象が終始残り続けた。

このゲームは一応SFアクションゲームという分類ではあると思うが、あまり近未来兵器をぶんぶん振り回せるような感じではない。

むしろエネミーの方が近未来兵器を多用し、プレイヤー側の武装はピストルや近接武器、カラシニコフなどのアサルトライフルやロケットランチャーがメインとなる。一応レールガンと呼ばれる武器やエレクトロいうエネルギーを消費して攻撃できるもの、あとはドミネーターと呼ばれる新物質ポリマーを射出し小規模な爆発を引き起こすものがあるが、逆に言えばそれしかないのだ...。エネミーの兵器が人間用の装備として存在していないのはどういう事情なのかは分からないが、SFのアクションスタイルを求めていた人にとってはあまり期待には応えられないだろう...。

なんなら射出系の武器は弾薬消費の制約を常に受け続けるうえに、近接武器で殴り倒す方が強いというのが現実である。しかも近接武器でしか倒すことの出来ないエネミーも存在するのでガンアクションとは程遠いところにある。回避→殴る→回避→殴る。その様子はさながらモンハンのようだ。

 

ステージ中には懐中時計のような見た目の録音機と、職員たちが日常的に使用していたと思われるメールボックスが散りばめられている。ここから世界観の考察やストーリーの深掘りができるといった感じだ。この辺りを無視して進むのならば思ってたよりもはやくエンディングを迎えることが出来るだろう。

 

能力の種別に格差があるし特定の能力が強すぎる

前述したとおり、このゲーム。能力が少々過剰なほどに強すぎると感じる。

特に周囲の物を持ち上げる事が出来るテレキネシス、敵の攻撃を防ぐことが出来るポリマーシールド。この二つの能力意外ぶっちゃけあまり使い物にはならない。というよりこの二つの能力が強すぎて使う必要がないと言った方がより正確か。

このゲームには一応電気や氷、炎と言った属性概念があって、うまく化学反応を起こすことによって効率的にダメージを与える事ができるのだが、この能力さえあればそんなシステム度外視で余裕でストーリーを進行できる。

 

テレキネシスを順当に強化していけば、ボス級のあいてすら無防備の状態で長時間浮かすことができ、その間にこちら側は攻撃ができるのだ。あまりに強い。強すぎる。しかも落下ダメージも与えられるので雑魚敵の処理なんかは一瞬だ。軽くマップ兵器と言える。ポリマーシールドに関しても、こいつ。敵の攻撃を完全に無効化するだけでなく、なんと反撃能力までオマケのようについてくる。もう最強すぎて軽くなろう主人公だ。

さらに反撃能力を強化するスキルツリーが存在していて、完全に近接殴りで敵を倒すことがシステム的に推奨されている気すらする。

 

ゴア要素について

最近リリースされたPS版などでは規制により血の色などが変えられるなどの変更を受けたが、ぶっちゃけ人間相手に銃をぶっ放したりしないのであんまり関係ないだろうなと思う。人間の死体はそこから中に存在していて、それを切り刻むことはできるが生きた人間をどうこうする機会がない、なのでいくらゴア規制したところであまり影響はないと思っている。人間の死体解体も数回やればすぐに飽きる。

 

ギミック、バグ関連の話

ストーリを進めるうえでの致命的なバグというバグには幸いなことに殆ど会う事はなかったが、人によっては侵攻不能バグに出会うこともあるようだ。

しかし全体的に調整不足である感じは否めなく、全体的にゲームの作りの粗さが目立つように思える。特に試験場関連のバグは特に多いように思える。

 

それに鍵解除などのギミックなどについても明らかに説明不足であり、なにをどうすればいいのかをゲーム内だけで完全に理解するのはかなり困難だ。

 

総評

評価/★★★☆☆ 

星5中、星3だ。

ソ連の不気味な世界観というものに惹かれ、アクションよりもストーリなどに期待して購入した今作であったが、可もなく不可もなし、まぁ悪くない買い物ではあった。

今後DLCが配信されるとのことで、それにも期待したい。予想外のエンディングでストーリもかなり気になるところで終わったので直ぐにでも続きをやりたい気分だ。レベルデザインに関して言えば薄暗い屋内戦が多く、あまり序盤のような街並みなどを楽しむことが出来なかったのが残念なポイントだ。

そして全体的に作りが粗いのが気にかかり、ボリュームもやや不足している。

また能力間のバランスも悪く、特定のものだけ使ってればいいという典型的な悪いゲームバランス。魅力的な近接武器の少なさに加えて、バリエーションの少ない射出武器。ただ、その代わりにアップグレードシステムが充実していて、特定の武器を特定の敵に対して特化させるといった運用の仕方も可能。

そしてこのゲームには他と違って唯一画期的な要素があり、それはゲーム内におけるアイテム収集だ。

 

掃除機のようにアイテムを収集できて素材集めに関してはストレスフリーなデザインとなっているのが画期的で個人的には高評価なポイントだ。また先ほどの能力に関する強化システムについても、いわゆる自分で強化先を選択するスキルツリー形式なのだが、なんとこれが、気軽にリセットしてそのポイントを他の能力に振り分けることができるのだ。実に快適である。ゲーム体験の快適さは私が保証しよう。総評としては以上となる。それでは良きゲームライフをお送りください。

 

 

 

【映画レビュー】バズ・ライトイヤー/なぜ近年のポリコレは押し付けがましく感じるのか【若干ネタバレあり】

 

あらすじ

有能なスペース・レンジャーのバズは、自分の力を過信したために、1200人もの乗組員と共に危険な惑星に不時着してしまう。地球に帰還するため、バズは猫型の友だちロボットのソックスと共に絶対に不可能なミッションに挑む。その行く手には、ずっと孤独だったバズの人生を変えるイジーや個性豊かな仲間たちと、思いもよらぬ“敵”が待ち受けていた──。

 

最初に

私は最近ディズニー+に加入して、過去のディズニー作品【アトランティス】【トレジャープラネット】や最近話題のスターウォーズ関連作品【バッド・バッジ】を見まくっていた。

最近だとディズニー+独占配信の新規アニメも多く、最近配信されている【天国大魔境】もその一つで↓

 

こちらも非常に面白く見させて頂いている、ハードな世界観とちょいちょいえちちな作風なのが実に良い。過去には【サマー・タイムレンダ】などの人気作品も過去に独占配信されていたこともある。

なので一足先に独占配信作品を楽しみたいならディズニー+の加入をおススメする。

 

とまぁ別にディズニー+加入のステマをしにきたのではなく、その中の配信作品。バズ・ライトイヤーについて思うところがあったのでレビューしたいと思う。

 

全体的な感想

全体的に非常に高品質な3DCG作品で、演出、脚本、映像のテンポともに非常に優れた作品であると言えるだろう。トイストーリーにおいては馴染み深いおもちゃであったあのバズ・ライトイヤーが、凄まじい映像美で主役を張っているその姿には目を見張るものがある。ある程度難解な要素を含んだSF作品であるものの、子供向け作品らしく非常に話がわかりやすく誰が視聴しても退屈することはなさそうだ。

序盤、未知の惑星に調査の為に着陸したバズ・ライトイヤー一行は、謎の植物クリーチャーに襲われて乗って来た母船が襲われる。なんとか陸地から離れるも、バズ・ライトイヤーの操縦による不安定な姿勢制御のせいで別の場所に不時着してしまう。

その際にハイパースペース航行に必要なクリスタルが破壊されてしまい、彼らはこの星域からの脱出が不可能になってしまった。

なんやかんやでクリスタルを作る為にこの惑星の豊富な資源をつかって基地を築き、製造困難なクリスタルの調合を繰り返して、バズ・ライトイヤーハイパースペース航行の為の実験の為に宇宙船に乗って宇宙へと飛び出す。

この際、光速に近づくにつれて基地の人間とバズ・ライトイヤーの時間がどんどんかけ離れていってしまい、何度目かの帰還の際、遂にはバズ・ライトイヤーのかつての相棒。アリーシャ・ホーソーンは老衰でこの世を去っていった。

このあたりの演出は、まるで【カールじいさんと空飛ぶ家】を彷彿とさせるようなものだった。その後、時間がずれていくにいたって基地内での政治状況も大きく変動していた。かつてこの星からの脱出を夢見ていたはずの人々はこの星で暮らすことを選択し、脱出を志すものはバズ・ライトイヤーただ一人だけとなってしまうのだが...。

ここから先の話は実際に見てもらう方が楽しめるだろう。

 

さすが天下のディズニー様、生半可のものを世に送り出すことはそうそうない。

 

ただしお得意のポリティカル・コレクトネスかまして【14ヵ国で放映禁止にされたようだが。

 

ポリティカル・コレクトネス

なぜ世界で放映中止にした国が出てくるほどに問題になってしまったのか。

それは、作中に登場する登場人物。冒頭のバズライトイヤーの相棒である

アリーシャ・ホーソーンが、黒人レズビアンとして作中内で女性同士の同性恋愛を繰り広げたからだ。その後、特に技術的な理由もなく子供が設けられ、キスシーンまで描かれた。

 

たしかにこれは一部の国では宗教観念的に放映不可能のシーンであることは想像に難くない。まぁその他にも、ビジュアルで大体想像できるようなポリコレ要素は完備されている、絶対に白人の美人ねぇちゃんは意地でも出てこないし、出てきても老婆である。(実際の人種はわからん)

 

一体何がここまで押し付けがましさを感じさせるのか

ここからが本題だ。先に言っておくと、私は決してポリコレを差別的に批判しているわけではないのだ。

私が思うに、とってつけたかのような映画のポリコレ要素には説得力が足りてないのだと思う。

先程言ったような、女性同士のキスシーンや、女性同士でそこから子供が設けられる話の展開には説得力を伴うバックボーンが存在していない。

どういうことかというと、まず女性同士で子供を作ることができないのは現実においてある程度の常識のはずだが、作中ではそうではない。

なにか先進技術的な後付けがあるのかな?と思いきや特にそういった描写はなく、実に唐突な設定だと言わざるをえないだろう。

だが、言いたいことは分かる。

同性同士の恋愛も家族もなにもかもが偏見のないあたりまえの世界であると言いたいのだろうということは。

だが、それこそが押し付けがましさを感じる要因なのだと思う。

例えば、彼女と彼女の出会いが運命的なもので、あぁこれなら恋愛関係になるのも納得だなと、そう思えるものをダイジェスト形式でもいいので用意すべきだったのだ。

いきなり結果だけを見せられても大多数側の人間はそこにドラマを感じる事ができず、あぁそうですかはいはいポリコレねと冷めた目でしかそのシーンを見る事が出来ない。

 

じゃあなぜノーマルの恋愛描写ならそうはならないのかと言えば、それは当然で今までに様々な恋愛描写を他で散々見てきたからだ。だからこそ勝手に補完されるし、それはそういうものだと違和感なく受け止める事が出来る。だが同性恋愛はそうではない、多くの視聴者はそういったものに当然ながら触れる機会が少なくて、どちらかというと今までのストーリー感からは異物に近い認識を持っている。それは当然だ、普通の大多数の人はそういうものを積極的に見るわけじゃないから。

なのにポリコレ擁護勢力はそういう人物達を差別主義者扱いして圧力をかけようとしている。こういった雑なポリコレ設定が、既存の大多数への少数派の理解から、少数側から大多数側へと挿げ替わろうとしているようにしか思えてならない。あまりに短絡的な思考ではないだろうか?

徐々に歩み寄ろうとするのではなく、いきなり天下を取ろうとしている。それはおかしいだろうと筆者は思うわけだ。

 

既存層へ理解を促すのではなく、ただひたすらに結果と現象を押し付けてあたかも「これが普通なんですよ???」と言わんばかりに大多数の人間の思考をバグらせにきている。だからこそポリコレは押し付けがましく、その要素については違和感を感じざるをえないのだ。

ポリコレはあくまでポリコレであり、とってつけてればいいってものではない。ストーリーと融合させてドラマを生んでこそ真のポリコレなのではないだろうか?

それに白人等への逆差別になっているような点も少々気にかかる、最近の作品ではまず綺麗な白人姉さんが出る事はなくなったわけだが、一方他人種や男性においては普通に端正な顔立ちの人間が多いように思える…。

既存要素から排除して入れ替えるように付け加えるのではなく、全ての要素を両立させてこそポリコレのあるべき姿ではないのか?とまぁ筆者はそう思うわけである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ゆかりさんと学ぶ哲学用語『リベラリズム&コミュタリアニズム』自由とはなにか【VOICEROID解説/哲学】



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今回は政治哲学におけるもっとも基本的な用語『リベラリズム
及び「コミュタリアニズム」についてです。

リベラリズム」や「リベラル」という言葉は日々のニュースや討論番組で
このワードを聞かない日は殆どないってくらい良く
聞く言葉ですが、ぶっちゃけどういう立場の人たちなのかは一般人から
したらかなりふわっとしてて分かりにくいところがありますよね。

いわゆる新自由主義リバタリアニズム同様にこちらもそのまま意味としては
自由主義」という風に言い換える事が出来ます。
様々な用語が交差するとカオスなので、端的に自由主義のベースがリベラリズム
であり、その他のネオ・リベラリズムだのニュー・リベラリズムだのはそのカスタマイズ
の度合いに過ぎないと考えてもいいように思えます。

リベラリズムとは他の極端な自由主義の思想とは区別するためによく使われる言葉であり
、日本では特にそのまま中立的意味合いとしてリベラリズムとそのまま使われることが多いです。
元々リベラリズムとは、人が生まれながらして有している自然権。生命・自由
・財産などを恣意的な国家権力などから守る為の思想として、17世紀イギリスの
哲学者ジョン・ロックなどから主張された古典的自由主義を由来とした思想です。

その後、19世紀イギリスの哲学者ジョン・スチュアート・ミルの著書『自由論』の
中にその精神が引き継がれ、哲学者ミルは古典的自由主義を他人に危害が加えられない限り
自由は保障されるという形に表現し、その考えは自由主義の思想に大きな影響を
与えたとされています。

一方でこの『リベラリズム』に批判的な立場も存在しており、
それは『コミュタリアニズム』と呼ばれて存在しています。

共同体主義とも訳すことができるこの思想は、共同体における共通善を重要視
しています。
これはどういうことかと言いますと、論者によって内容はよく異なってきますが
基本的に共同体における自己の位置付けというものを意識しているというのが
特徴であると言えます。

アメリカの政治哲学者、ハーバード大学の教授でもあるマイケル・サンデルは著書
に『リベラリズムと正義の限界』などがあり、彼は主にコミュタリアニズムの立場から
様々な議論を展開していきました。
そんな彼によれば、人々は決して特定の環境から完全に独立した存在なのでは
なく、自分の所属する共同体と深い関係をもつ存在であると言い、これを『位置づけ
られた自己』と呼びました。

1980年代アメリカではこのリベラリズムとコミュタリアニズムとの対決。
『リベラル・コミュタリアニズム論争』が巻き起こったことがありました。
主に論争の論点は以下の二つに集約され、リベラリズムの想定する自己の存在が
歴史や伝統、共同体といった文脈から切り離されて考えられているという点と、
正義を導き出すためのプロセスを優先するあまりに、道徳や善に関する
議論が放棄されているという点で争われたといいます。

要するに、元来共同体の人々は共通の善の認識の中で
価値観を共有して生活しているのに、人々の自由を尊重しすぎれば当然異なる価値観が
跋扈しはじめて『自由』であることと『共同体』である事には矛盾が生じてきてしまう
ということです。

その他のコミュタリアニズムの立場をとる代表的な理論家。
スコットランド出身の哲学者、アラスデア・マッキンタイアによれば、人間は
自分にとっての善を問う事ではじめてアイデンティティを得る事ができるのだと
良います。アイデンティティを得る為には、自分の属する共同体や伝統を
参照せざるをえず、人間は自己に関する統一的な物語を構成する主体になることで
道徳的判断能力を会得するのだと言います。

これらのことから、コミュタリアニズムの立場というのはリベラリズムと比較して
共同体に共有された美徳や善と言った価値観を持った思想であるという事が
分かりました。

しかし、自由を愛する国アメリカにおいてはコミュタリアニズムは社会主義的な思想
とみなされてあまり人気のない立場でした。
ですがそのイメージを覆した立役者としてハーバード大学教授のマイケル・サンデル
近年、その講義などをテレビで放映されはじめたことから注目を浴びはじめているようです。

ということで、今回はリベラリズムとコミュタリアニズムについてでした。
リベラリズムに関して批判的な立場の内容が多めでしたが、リベラリズムも資本主義の台頭に
よる貧富の格差の脱却から如何にして人々を救うかという点においても重要な思想
として機能している側面があります。

故に、現代のリベラリズムは普段言われるような価値中立性というよりは、
時代に応じた積極的な自由を促進する立場であることも多いため、変化する議論の
中でも意見を衝突させて新たに価値観を昇華できるようになっていければいいなと
私は思います。

 

 

 

 

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ゆかりさんと学ぶ哲学用語『リバタリアニズム』政府なんて大っ嫌い!!!【VOICEROID解説/哲学】

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今回は前回の『新自由主義』に関連する政治哲学用語『リバタリアニズム
について紹介致します。

リバタリアニズムは、日本語で言うと『自由尊重主義』と訳されます。
そして、このリバタリアニズムを主張する人々を通常『リバタリアン』と呼びます。

リバタリアニズムとは自由尊重主義と訳される通り、経済及び個人の自由や趣味趣向を
最大限尊重する極端な個人主義の立場のことを主に指しています。

新自由主義におけるネオ・リベラリズムと内容は酷似していますが、その違いは
主にリバタリアニズムの方がより極端に個人主義を重視するという点です。

例えばネオ・リベラリズムの場合は、政府による個人や市場への介入はある程度最小限に
すべきという考え方が基本ですが、リバタリアニズムの場合は国家の構造そのものを
廃止するという立場を含みます。
ですので一般的には新自由主義における過激な一派としてよく位置づけられますが、
これもまた一概に言えない用語であるのがこの分野を複雑にしてる要因でもあり、
自身をリバタリアンと自称する人々の主張は実際には幅広く
無政府主義者はアナルコ・キャピタリズムと呼ばれる『無政府資本主義』という分類
に属すと言われています。その次に最小国家論という段階が存在したりと
用語の意味の定義としては結構広義に使われたりしてます。

リバタリアンという言葉が最初に使われたのは1790年代のイギリス人政治作家の
エッセイよって初めて使われた言葉であるとされていますが
ジャーナリズムの世界では1950年代からリバタリアンは本格的に広まり始めました。
やがて1970年代アメリカでは『全米リバタリアン党』が結成され、民主党共和党
に次ぐ三番目の政党として党員数は少ないものの存在しています。

そして1970年代、アメリカの哲学者ロバート・ノージックの著書『アナーキー
国家・ユートピア』の中で最小国家論などを唱えたことにより
これがアカデミックな分野などで注目されたことによってアメリカ国外へと
リバタリアニズムという言葉がより広まっていくこととなりました。

リバタリアニズムは一般的な政治思想の分類として『極右』に位置づけられますが
しかしその中でも更に『右派リバタリアニズム』と『左派リバタリアニズム
に別れているんです。めんどーですね。

まず右派リバタリアニズムついて、
リバタリアニズムの中でも様々な相違点があるにせよ、全ての右派リバタニアンには
中心的に同意している核心的な思想が存在しており、それは『自己所有原理』の
原則です。自己所有権自然権と捉え、その絶対不可侵性を唱えるのです。
すべてはこの真理に基づいた行動をしており、それゆえに政治思想として
は『極右』に位置付けられるリバタリアニズムでも一般的に左翼の主張とされる
中絶、ポルノ、売春、その他、他人の財産を侵害しないあらゆる
個人的行為の自由を必然的に支持することや、徴兵制を純粋で単純な
奴隷制とみなしていることなど、客観的に見て中道的、悪く言えば
変動的で一貫性がない立場のように見えます。

しかし右派リバタリアニズムの主張としてはすべての個人の自由を
代表して真に一貫していると彼らは考えているのです。

次に左派リベラリズムですが、こちらも『自己所有権原理』を前提としている点は
共有している価値観ではあるものの、市場経済原理を重視した平等主義的富の再分配
も両立可能であると考えている点において違いがあります。
これは裕福な人々に課税し、その税収によって富の再分配を行う事は
納税者を奴隷として酷使するのに等しいと考える右派リバタリアニズムに対して
批判的な立場であると言えるでしょう。

以上、リバタリアニズムについてでした。

非常にややこしい分野ではあるのですが、簡単にまとめると
リベラリズムを大きく四つに分類した時に、
古典的自由主義』『ニュー・リベラリズム』『ネオ・リベラリズム
そして四つ目の分類として最も個人を尊重する立場『リバタリアニズム』がある
というわけでした。

如何でしたでしょうか、アメリカはリバタリアニズムの発祥の国というだけあって
アメリカ国民の10~20%はリバタリアニズムだと言われています。
かの有名な決済代行サービス、ペイパルの創業者ピーター・ティール氏もリバタニアン
であると言われており、国に依存しない通貨を作るという理念のもとペイパルを
創業したのだと言われています。