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ハーシェルの独り言

グラブルや雑談等、しがないぴよっぴよです。

ゆかりさんと学ぶ哲学用語『決定論』ラプラスの悪魔【VOICEROID解説/哲学】

 

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決定論ラプラスの悪魔

 

突然ですが、皆様はご自身に自由意志はあるとお思いですか?
今日お出かけする時に着ていく服どうしようか、
はたまた今日の晩御飯は何にしよう、もしくはTwitterで言葉をつぶやくときなんて
ツイートしよう。
などと、これらは確かに私達の自由意志の元に行われる行動のように思えます。
でも実は、これらの行動には自由意志によって行動しているように思わされているだけで、
本当は最初からそうするようにと行動が決定しているとしたら...?

ある時、フランスの数学者。ピエール・シモン・ラプラスは言いました。
「ある瞬間に宇宙の全ての原子の位置と速さを知ることができれば、宇宙がどうなるか。
未来永劫に渡って知ることが出来るだろう」と。

これは有名な思考実験で、「ラプラスの魔」、もしくは「ラプラスの魔物」。
一般的な呼称としては「ラプラスの悪魔」とよく呼ばれているものですね。

このような全ての事象は神や宇宙の摂理か何かに決定されていて、
人間に最初から自由などないと考えることを「決定論」と言い、こういった議論そのものは
遡れば古代ギリシアの時代から存在し、現代でもよく議論されるお話です。
その中でもずば抜けて有名なのが「ラプラスの悪魔」なのです。

私達の心を、純粋に物的なものとして考えていく。すなわち物的一元論の立場から
考えていくと、究極的には人間には自由意志など存在しないという事になってしまうのです。
例えば私が今ここで「バケツねるねるね」を作りたいとしましょう。
しかしその意志も、脳という物質的現象で考えるなら、
私がいまここで「バケツねるねるね」作りたいと思った事は、既に脳の中で先行する物質
の現象によって引き起こされたにすぎず、こうすると私達が本来自由だと思っていた
意志は見せかけの「自由」に過ぎなかった。ということになります...。

ん...、待てよ。バケツねるねるねを作る事は...単なるつまらない私の意志
なのではなく...壮大な宇宙の意志だったのか...?

とまぁ、それは置いといて。
ラプラスさんの他にも、似たような事を言った凄い人もいます。
かつてDNAの二重らせん構造を発見したことで有名な20世紀イギリスの生物学者
フランシス・クリックは、こう言い放ちました。
「人間の自由意志は、無数の神経細胞の集まりと、それに関連する分子の働き以上の何
ものでもない」と。

ますます怖くなってきてしまいました、つまりこの話が本当なら私がこれから何をしたいと
思うかは完全に予測できる事になってしまうということです。
「あなたは○○○○年、○○月○○秒にバケツねるねるねを作りたいと思うでしょう」
というような事が可能なのです、なんてことでしょう。果たして
私達に本当に自由意志はないのでしょうか?そして私のバケツねるねるねは一体どうなって
しまうのでしょう。

 

決定論と自由意志に関して、アメリカの生理学者ベンジャミン・リベットによってある実験
が行われました。

被験者は脳波を測定された状態で、好きなように指を動かすことを許されます。
この時、普通に考えれば意志が先に発生して、その後指が動くはずです。
そして実際に、被験者の指は被験者が指を動かそうと思った0.2秒後に動きました、しかし。
その意志が発生する0.35秒前に「運動準備電位」が計測されたと言うのです。

このことから言える事として、つまり。意志が発生する前に脳内における電位変化という
現象が先に発生したということになります。
この実験結果によって、決定論的な考え方を持つ人々が多く現れはじめたと言われています。

しかし実験を執り行った本人であるリベット氏は、むしろ「運動準備電位」を生じる事を
被験者に知らせたならば、被験者はそのわずかな間にその決定を取りやめることも出来る
と考え、結果的には自由意志は存在すると考えました。

しかしどうでしょう、もし本当に自由意志は存在しないんだとして。意志の全てを
「運動準備電位」が司っているのだとしたら、その「運動準備電位」はどこから
やってくるのでしょう...?
「運動準備電位」を発生させる為の他の機構が必要になってくるはずです、だとしたら
今度はその機構を発生させるための機構が必要になり...。と無限後退が発生して
しまうようにも思えます。
いわゆるパラドックスになってしまうのではないでしょうか。

当然、決定論はこのような考え方をしていくとこのような
問題にぶちあたってしまいます。
そこで決定論の全てが定まっているというような厳格なルールを取り外し、
決定論的事象と自由意志の両立を認めた「両立論」というものが現れます。
これはしばしば「柔らかい決定論」とも呼ばれます。
この両立論の基本的な考え方は、仮に決定論的な立場で物事を考えたとしても、
自由がまったくなくなるわけではないとしています。

その理由として、そもそも人は自由意志の存在について考えられるからだと言います。
例えば、今ここで私がバケツねるねるねを作ろうとします。
しかしそれが例え宇宙の摂理で決定された事象だったとしても、今自分がバケツねるねるねを
作りたいと思っていること、つまり意志決定は紛れもない事実であり、
それを決定し実際に行っていることは否定できることではないからです。
あくまで自分で決めたことについて行動することを自由としておくなら、自由は存在
していることになります。
こうして決定論と自由意志は両立するのです。

 

さて、なぜ自由を否定するような決定論は一定の支持を持ち続けるのでしょう?
皆さま、「自由」とはなんでしょう?
決定論を否定し、人がありのまま。
それこそ我がままに生きれることが自由なのでしょうか?
一般的に、自由とはそのようなものなのでしょう。
ノーベル賞を拒否した最初の人物でありフランスの哲学者。サルトルによれば、
自由であることは、同時に自分でなくなるという危険性を持っていると言います。
本当の自由とは「私からの自由」なのだと、人間は自由でこそありえる存在ですが、
それは恐ろしいことでもあるのです。
例えば、人と会話をしているとき。「この人を急にここでぶんなぐったらどうなるんだろう」
と思った事はありませんか?
崖や屋上に足を運んだ時、ここから足を踏み出したらどうなるんだろう。そんな事を思って
しまうこともあります。

こうした考えや意志はたしかに自由であるからこそ出来ることですが、人はそこに「不安」
を感じるのです。
だから人は自由である事を恐れ、決定論な物の見方をする事がある。自分で何かを選び取り
選択することを恐れる。誰かに命令され、決定されたことをしていた方が
安心できる。誰しもが一度は感じたことがあるような感情です。

人は自分の自由に対する不安から目を逸らしたいから、変わらない自分の意志が
心の中にあると思いたがる。
同一の自己の意志というものはむしろ後から作られるものだと言います。
これをサルトル自己欺瞞と呼びました。
人は自由の身でありながら、そこらの石のような物の在り方で存在しようとし、物の
あり方に憧れるのだと、サルトルはそう考えるのです。

ということで、今回は『決定論』についてでした。
決定論は実に興味深い視点から展開される概念であるものの、最先端の量子力学などの分野では
そういったミクロの世界では決定論は成り立たないことや、決定論を認めてしまうと
人が罪を犯した時の道徳的責任が消滅してしまうなど、様々な問題が発生してしいます。

実際に人間の自由意志の存在を絶対的に認めない「非両立論」の立場がありますが、
現実的な社会において決定論を考える時には、「柔らかい決定論」で考える方が適切なの
かなと個人的には思います。

 

 

 

※文章は動画のTXTデータです。