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ハーシェルの独り言

グラブルや雑談等、しがないぴよっぴよです。

ゆかりさんと学ぶ哲学用語『新自由主義』ニューorネオ【VOICEROID解説/哲学】

 

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今回は哲学用語『新自由主義』について紹介いたします。
またの名を『ネオ・リベラリズム』あるいは『ニュー・リベラリズム

これは、20世紀初頭からイギリスを中心に発展した経済思想です。
有名な政権で言えば80年代イギリスのサッチャー政権、アメリカのレーガン政権など
で大きな影響を受けており、『小さな政府』を掲げて市場原理主義の元
実質的にこの思想が採用されていました。

日本において『新自由主義』と称される政治思想には二種類あるとされています。
まず一つ目が『ニュー・リベラリズム』と呼ばれるものです。


『ニュー・リベラリズム』とは、18世紀末から19世紀にかけてのそれまでの
自由放任主義的な古典的自由主義に対する形の自由主義です。
ニュー・リベラリズムの場合は、より具体的に『個人の自由実現のために
社会公正を重視し、福祉社会の構築を提唱する立場』だと言えます。
近代自由主義とも呼ばれることがあります。
主にアメリカのリベラリズムを指して使われることが多いとされています。

そしてもう一つの新自由主義は『ネオ・リベラリズム』です。
こちらも同じように新自由主義と訳され、場合によって他の自由主義と混同されて
使われることがあります。
こちらは意味合いとしては、『個人の自由や市場原理を重視し、政府による個人や市場への
介入を最小限に留めるべき』という立場です。
主に欧州ヨーロッパ指して使われることが多いです。

どちらも似たような言葉であり、自由主義の思想を
共有はしているものの、方向性としてはまるで異なるものです。

『ニュー・リベラリズム』は、それまでの放任的な自由を許し続けると貧富の
格差がますます拡大し様々な社会問題を噴出させてしまうと考え、この格差を
是正するために社会主義的な性質を持ち始めます。
社会保障を充実させ、社会の不平等を無くした上でこそ真の自由を追い求められる事
ができると考えるものです。これは積極的自由と呼ばれる姿勢です。
イギリスの哲学者グリーンや、社会学者ホブハウスと言ったような思想家が中心
となって福祉国家の思想を拡大させていきました。

一方『ネオ・リベラリズム』は、ニュー・リベラリズムに対してむしろ逆の考え方を
していると言えます。
それまでのニュー・リベラリズムでは先進国における社会保障充実に伴い当然
財政状況圧迫等によって様々な批判がされるようになるわけです。
その批判の先鋒者たるオーストラリア生まれのノーベル経済学受賞者経済学者
ハイエクを筆頭とするネオ・リベラリズムが生まれました。
自由貿易や民営化などを通じて、ハイエクは国家による市場の介入を批判し、
市場の役割を最大限重視したのです。


以上のように新自由主義と一口で言っても様々な種類があります、
更にリベラリズムの意味合いは結構複雑になってきているのが現状です。
人によって使ってる言葉の意味が違うなんてのもザラです。
一説によれば、今世界を席巻しているのは競争重視の経済体制である
この『ネオ・リベラリズム』だとも言われていますが、
例えばアメリカや欧州、日本のリベラリズムを比べても全く同一ではありませんし、
むしろ日本の場合は既存のリベラリズムのカテゴリには属しない独自のリベラリズム
を歩んでいるとも言えます。

簡単にまとめると、古典的自由主義を批判する形でニュー・リベラリズム
誕生し、更にそれを批判する形でネオ・リベラリズムというものがあるわけですね。
更にこっから『リバタリアニズム』と言ったような形で細分化されていくわけですが、
ぶっちゃけここは程度の差の話でしかないと思いますので
、今はそこまで深く掘り下げて考える必要はないでしょう。

ということで今回は『新自由主義』についてでした。

 

 

hersyeru.hatenablog.com

 

ゆかりさんと学ぶ哲学用語『ポピュリズム』大衆を迎合する態度【VOICEROID解説/哲学】

 

ゆかりさんと学ぶ哲学用語『ポピュリズム』政治が大衆に迎合しようとする態度【VOICEROID解説/哲学】

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#sm41525273 #ニコニコ動画

 

ポピュリズム

少し期間が空いてしまってましたが、またコツコツ動画を挙げていこうと思います。

さて、今回は最近アメリカの中間選挙で盛り上がったこともあって、トランプ元大統領の話題をよく聞く機会が増えましたね。
トランプ元大統領のTwitterの永久凍結が解除されるのだとか。

しかし、そんな誰もが知るトランプ元大統領は、よく次の言葉を用いられて批判されていることがあります。

ポピュリズム』政治家

このポピュリズムという言葉、ニュースやらで一度くらいは聞いたことがあるでしょうか。

今回はこの『ポピュリズム』という哲学用語についてです。

ポピュリズムとは、日本語では『大衆迎合主義』とよく訳されます。

これは意味合いとして、政治が大衆に迎合しようとする態度のことを指しています。

一見聞こえの良い言葉のように思えてきますが、その実は民衆に耳を傾けるのではなく、
民衆に対して共感の得やすい言論を展開し、それを駆使することであたかも民衆の意見
であることを装い、政治家自らが望む様な変革を実現させるような、云わば扇動的な
カリスマ政治家のことを指す意味合いとしてポピュリズムという言葉は使われます。

まぁここでは大まかに民衆を扇動して過激な言論を取る政治家と捉えてもいいでしょう。

このようなポピュリズム政治家が生まれる経緯としては、その国の民衆が
不満を抱えはじめ、民主主義が機能不全に陥ると、まるでそのことの警告のようにして
代弁者たるポピュリズム政治家が現れ始めるのです。

今そんなポピュリズム政治家が世界中に席巻し始めていると言っても過言ではありません。
ベネズエラチャペス大統領、ハンガリーのオルバー首相、トルコのエルドアン大統領
といった人物たちなど、権威主義を丸出しにしたポピュリスト達として名を良く連ねます

ドイツ出身のアメリカの政治学者、著作『ポピュリズムとは何か』の著者
『ヤン=ヴェルナー=・ミュラー』によれば、ポピュリズムとは
人々が持つ特定の道徳に基づく政治のイメージを、エリートによる
政治と対置させる反エリート主義的なものだと言います。
いわゆる反知性主義、反エスタブリッシュメント
(エスタブリッシュメントは社会的に確立した体制・制度やそれを代表する支配階級のこと)
のようなものだという事です。

このような反エリート主義的なポピュリズムは世界的な問題とされ、近年の
英国EU離脱問題や、ドイツやフランス。イタリアなどの欧州でのポピュリスト政党の台頭
など、国内の分断が深刻な事態として叫ばれます。

ミュラーはこのポピュリズムの本質として、多様な意見を統合する民主主義の多元主義
に対して、ポピュリズムは他の考えや道徳を認めない反多元主義的側面があることに
その本質を捉えているのです。

以上のことから、ポピュリズムとは何か。そしてポピュリズムはなぜ批判されるのかが
分かりましたね。

さて、ポピュリズムについて調べていると、分断や紛争を招きかねない
存在としてよく絶対悪のように表現されることがあります。
正直私には、ポピュリズムが本当に悪なのか、それとも善なのかは判断がつきません。
究極的に言えば民主主義が本当に正しいのかすら分かりません。

ですが、少なくとも多くの人間が信じる道が当分はその時代にとっての正義なのだろうと
思います。
人々にも様々な政治信条があろうとは思いますが、何事も極性化しないようにのめり込み過ぎず、
常に多角的な視野を持って政治等の問題に関心を持ってもらいたいものですね。

ということで今回は【ポピュリズム】についてでした。

 

hersyeru.hatenablog.com

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ゆかりさんと学ぶ哲学用語『イデオロギー』若干ネタ【VOICEROID解説/哲学】

 

 

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イデオロギー

 

さて、世の中にはひろゆっきー(上記動画のキャラ)のように様々な考え方を持った人達がいます。そして人によっては社会的、歴史的立場を反映させた色々な傾向があり
その傾向のことを、通常私達はイデオロギーと呼びます。
要するに思想の傾向というわけですね。

イデオロギーという言葉は、マルクスエンゲルスの共著『ドイツ・イデオロギー
においてはじめてイデオロギーという言葉が生まれました。
マルクスは主にイデオロギーという言葉を
資本主義への批判に主に用いていた言われています。

イデオロギーの定義は人によってまちまちですが、マルクス主義の定義に乗っ取るならば
イデオロギーとは社会の現実からかけ離れた矛盾を覆い隠してしまうほどの意識の
形態だと言います。
階級社会においては上部構造と下部構造の相互作用を通じて特定の勢力が
自らの利益に有利になるようなイデオロギーを正当化してしまい
現実的な問題が疎かになったりしてしまう。

マルクスは、イデオロギーにはこのようなイデオロギー性質があるといい、
これは虚偽意識と訳されます。

上部構造/下部構造については前に取り扱ったことがあるので、そちらをみていただければ
と思います。

さて、現代的なイデオロギーについて考えると政治的な問題は避けては通れません。
米中露のような巨大なイデオロギーによる台頭は、やがて『イデオロギー戦争』と呼ばれる
までに発展しました。

なぜイデオロギー同士は激しく対立をしてしまうのでしょうか。

かつてのソ連アメリカによる資本主義対社会主義などの冷戦の構図のように、お互いに
正義とすることが両立を認めずに狭量でぶつかりあってしまう。
思想傾向をぶつけあったところで、何も問題は解決しないというのに。

それは現代においても変わらずに思想の対立は存在しています。
しかし、だからと言ってイデオロギーを持つことが悪いということではないのです。

何らかのイデオロギーを批判する時、批判する自身もまた何らかのイデオロギーの影響下
にあるかもしれない自覚を持つ事が大事なのではないでしょうか。
それに気づけないまま批判を繰り返しても
かつての冷戦と同じで何もその行為に進捗はありません。

それはきっと、とあるイデオロギーに妄信し思想をふりかざす人々と差異はないことだと
思いますから。

ということで今回は『イデオロギー』についてでした。

 

 

 

 

ゆかりさんと学ぶ哲学用語『分析哲学』ウィトゲンシュタインの言語論的転回【VOICEROID解説/哲学】

 

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分析哲学

 

はぁ、それにしても殺人的なあつい日々が続きますね。
季節の好き嫌いで言えば夏は比較的好きな部類に入っていたのですが、こうも
例年気温が上がってくると嫌いにもなってきますね。

さて、こうして気温が上がっていき直射日光の多い日々が続きますと必然的に
熱中症で道ばたに倒れる人も出てくることでしょう。
そこで倒れた人をみかけた通りすがりの人達は、余程のことがない限りその人物を
心配し駆け寄ります。

倒れた人が途切れ声で「水、いっぱい」と口にすれば、それを聞いただけで周りの人々は
即座にその意図を理解し、その人物に水をたくさん届けます。

他にも暑さを凌ぐ目的や喉の乾きなどで、手頃な近くのレストラン
などに入る事も多いでしょう。
そこで「水、いっぱい」と言えば、店員さんは即座に意図を
理解し水を『一杯』持ってきてくれるはずです。

これらは実に当たり前に行われるなんてこない日常ですね。

ところで、どちらの例も同じ言葉である「水、いっぱい」という言葉を使っていますが、
水をたくさん持ってくるのか、それとも水を一杯だけ持ってくるのかは同じ言葉でも
状況によって違う事が分かります。

これを更に言い直すとしたら、状況によって言葉のルールが変わっていると言えます。
このように私達は状況に合わせてなんて事もなく発した人の
言葉の意図を理解しています。

このような人々の状況によって異なるルールを持つ生活状況を「生活形式」と呼び、
その生活形式によって用いられる言葉の使い方のルールのことを「言語ゲーム」と呼んだり
します。

言語ゲームという言葉は、オーストリア出身の哲学者。ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン
の著書『哲学探究』の中で現れた概念のことであり、彼は先ほどの例のような生活に
おける様々な言語活動をゲームとして捉えて考えていました。

彼は言語に内包された共通する本質的な意味はなく、その都度の会話の中でしか成立しない
ものだとされ、そしてそれはなんとなく特徴がどこか似ているだけの
同じ苗字を共有する家族のような『家族的類似』と呼ばれるものに過ぎないと言います。

それまでの哲学では、認識したものを言葉で表現するという方法を取っていたので、
このような先に言語を分析する事を主軸とした『分析哲学
という考え方は激的な発想の転換とされ、
この分析哲学の登場は『言語論的転回』と呼ばれることとなりました。

より具体的に言えば、以前の哲学の様々な問題というものは言語にまつわる誤解によって生じる
疑似的な問題であるというウィトゲンシュタインによる指摘と、言語の分析を通じて物事は考察されるべきだという
方法論の採用という要素によって『言語論的転回』は構成されています。

また、この『分析哲学』という言葉が何を意味しているのかについては様々な議論があり、
何かしらの形で言語の意味を解析するのであるから分析哲学とは哲学そのものを指している
と言う学者も多いようです。しかし一般的には
20世紀英米を中心に発展した哲学流派のことを指しており、言語分析によって
真理を探究する立場のことを言うことが多いとされています。


また、ウィトゲンシュタインの考えに影響を受けた学者達による
1920年代に設立された研究サークル『ウィーン学団』によれば、哲学の役割は
真理の発見ではなく、言葉の意味の分析にほかならないとさえ言います。

ちなみによく誤解される事として、分析哲学の話題において必ず引き合いに出される
ウィトゲンシュタインさんですが、このアメリカを中心とする哲学流派には
属しておらず、厳密に言えば分析哲学者ではありません。
しかしその存在は分析哲学においては重要な人物であったことはたしかです。


近年の日本では、この分析哲学の研究が盛んに行われはじめ、主にこれまでの
形而上学の扱ってきた分野に基礎的かつ厳密に分析を行い細かく専門化され、それらは
しばしば従来の形而上学の範疇で論じられてきた
ものであることから『分析形而上学』や『現代形而上学』と呼ばれる事もあるそうですよ。

ということで、今回は『分析哲学』についてでした。
ウィトゲンシュタインの発想は、アメリカを中心とする英米に影響を与え、またその
哲学の奔流は日本の哲学にも影響を与えたんですね。

しかしそうは言っても日本固有の分析哲学史のようなものは未だ少なく、海外の最新論文
の後追いでその問題点を指摘して論文が終わってしまうようなものが典型的なようです。
これはいわゆる日本的な悪癖のようなもので、哲学が一般的に西洋のことを指すとイメージ
されるように、哲学が未だ欧米のような国の所有物であり、私達日本人はそれを学ぶ立場に
あるという感覚が根強いからだと言われています。

これはなにも哲学に限った話ではないですよね、よく聞く話です。
ですが、独自の日本の分析哲学史が完全にないというわけでもなく、日本は日本で
分析哲学そのものは半世紀以上の歴史を持っています。

欧米にないようなオリジナルに展開された日本独自の分析哲学
これから増えて広まり、いつしか日の目を浴びて知られる日が
来ることに期待したいところですね。

 

 

この文章は動画のTXTデータです。

ゆかりさんと学ぶ哲学用語『決定論』ラプラスの悪魔【VOICEROID解説/哲学】

 

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決定論ラプラスの悪魔

 

突然ですが、皆様はご自身に自由意志はあるとお思いですか?
今日お出かけする時に着ていく服どうしようか、
はたまた今日の晩御飯は何にしよう、もしくはTwitterで言葉をつぶやくときなんて
ツイートしよう。
などと、これらは確かに私達の自由意志の元に行われる行動のように思えます。
でも実は、これらの行動には自由意志によって行動しているように思わされているだけで、
本当は最初からそうするようにと行動が決定しているとしたら...?

ある時、フランスの数学者。ピエール・シモン・ラプラスは言いました。
「ある瞬間に宇宙の全ての原子の位置と速さを知ることができれば、宇宙がどうなるか。
未来永劫に渡って知ることが出来るだろう」と。

これは有名な思考実験で、「ラプラスの魔」、もしくは「ラプラスの魔物」。
一般的な呼称としては「ラプラスの悪魔」とよく呼ばれているものですね。

このような全ての事象は神や宇宙の摂理か何かに決定されていて、
人間に最初から自由などないと考えることを「決定論」と言い、こういった議論そのものは
遡れば古代ギリシアの時代から存在し、現代でもよく議論されるお話です。
その中でもずば抜けて有名なのが「ラプラスの悪魔」なのです。

私達の心を、純粋に物的なものとして考えていく。すなわち物的一元論の立場から
考えていくと、究極的には人間には自由意志など存在しないという事になってしまうのです。
例えば私が今ここで「バケツねるねるね」を作りたいとしましょう。
しかしその意志も、脳という物質的現象で考えるなら、
私がいまここで「バケツねるねるね」作りたいと思った事は、既に脳の中で先行する物質
の現象によって引き起こされたにすぎず、こうすると私達が本来自由だと思っていた
意志は見せかけの「自由」に過ぎなかった。ということになります...。

ん...、待てよ。バケツねるねるねを作る事は...単なるつまらない私の意志
なのではなく...壮大な宇宙の意志だったのか...?

とまぁ、それは置いといて。
ラプラスさんの他にも、似たような事を言った凄い人もいます。
かつてDNAの二重らせん構造を発見したことで有名な20世紀イギリスの生物学者
フランシス・クリックは、こう言い放ちました。
「人間の自由意志は、無数の神経細胞の集まりと、それに関連する分子の働き以上の何
ものでもない」と。

ますます怖くなってきてしまいました、つまりこの話が本当なら私がこれから何をしたいと
思うかは完全に予測できる事になってしまうということです。
「あなたは○○○○年、○○月○○秒にバケツねるねるねを作りたいと思うでしょう」
というような事が可能なのです、なんてことでしょう。果たして
私達に本当に自由意志はないのでしょうか?そして私のバケツねるねるねは一体どうなって
しまうのでしょう。

 

決定論と自由意志に関して、アメリカの生理学者ベンジャミン・リベットによってある実験
が行われました。

被験者は脳波を測定された状態で、好きなように指を動かすことを許されます。
この時、普通に考えれば意志が先に発生して、その後指が動くはずです。
そして実際に、被験者の指は被験者が指を動かそうと思った0.2秒後に動きました、しかし。
その意志が発生する0.35秒前に「運動準備電位」が計測されたと言うのです。

このことから言える事として、つまり。意志が発生する前に脳内における電位変化という
現象が先に発生したということになります。
この実験結果によって、決定論的な考え方を持つ人々が多く現れはじめたと言われています。

しかし実験を執り行った本人であるリベット氏は、むしろ「運動準備電位」を生じる事を
被験者に知らせたならば、被験者はそのわずかな間にその決定を取りやめることも出来る
と考え、結果的には自由意志は存在すると考えました。

しかしどうでしょう、もし本当に自由意志は存在しないんだとして。意志の全てを
「運動準備電位」が司っているのだとしたら、その「運動準備電位」はどこから
やってくるのでしょう...?
「運動準備電位」を発生させる為の他の機構が必要になってくるはずです、だとしたら
今度はその機構を発生させるための機構が必要になり...。と無限後退が発生して
しまうようにも思えます。
いわゆるパラドックスになってしまうのではないでしょうか。

当然、決定論はこのような考え方をしていくとこのような
問題にぶちあたってしまいます。
そこで決定論の全てが定まっているというような厳格なルールを取り外し、
決定論的事象と自由意志の両立を認めた「両立論」というものが現れます。
これはしばしば「柔らかい決定論」とも呼ばれます。
この両立論の基本的な考え方は、仮に決定論的な立場で物事を考えたとしても、
自由がまったくなくなるわけではないとしています。

その理由として、そもそも人は自由意志の存在について考えられるからだと言います。
例えば、今ここで私がバケツねるねるねを作ろうとします。
しかしそれが例え宇宙の摂理で決定された事象だったとしても、今自分がバケツねるねるねを
作りたいと思っていること、つまり意志決定は紛れもない事実であり、
それを決定し実際に行っていることは否定できることではないからです。
あくまで自分で決めたことについて行動することを自由としておくなら、自由は存在
していることになります。
こうして決定論と自由意志は両立するのです。

 

さて、なぜ自由を否定するような決定論は一定の支持を持ち続けるのでしょう?
皆さま、「自由」とはなんでしょう?
決定論を否定し、人がありのまま。
それこそ我がままに生きれることが自由なのでしょうか?
一般的に、自由とはそのようなものなのでしょう。
ノーベル賞を拒否した最初の人物でありフランスの哲学者。サルトルによれば、
自由であることは、同時に自分でなくなるという危険性を持っていると言います。
本当の自由とは「私からの自由」なのだと、人間は自由でこそありえる存在ですが、
それは恐ろしいことでもあるのです。
例えば、人と会話をしているとき。「この人を急にここでぶんなぐったらどうなるんだろう」
と思った事はありませんか?
崖や屋上に足を運んだ時、ここから足を踏み出したらどうなるんだろう。そんな事を思って
しまうこともあります。

こうした考えや意志はたしかに自由であるからこそ出来ることですが、人はそこに「不安」
を感じるのです。
だから人は自由である事を恐れ、決定論な物の見方をする事がある。自分で何かを選び取り
選択することを恐れる。誰かに命令され、決定されたことをしていた方が
安心できる。誰しもが一度は感じたことがあるような感情です。

人は自分の自由に対する不安から目を逸らしたいから、変わらない自分の意志が
心の中にあると思いたがる。
同一の自己の意志というものはむしろ後から作られるものだと言います。
これをサルトル自己欺瞞と呼びました。
人は自由の身でありながら、そこらの石のような物の在り方で存在しようとし、物の
あり方に憧れるのだと、サルトルはそう考えるのです。

ということで、今回は『決定論』についてでした。
決定論は実に興味深い視点から展開される概念であるものの、最先端の量子力学などの分野では
そういったミクロの世界では決定論は成り立たないことや、決定論を認めてしまうと
人が罪を犯した時の道徳的責任が消滅してしまうなど、様々な問題が発生してしいます。

実際に人間の自由意志の存在を絶対的に認めない「非両立論」の立場がありますが、
現実的な社会において決定論を考える時には、「柔らかい決定論」で考える方が適切なの
かなと個人的には思います。

 

 

 

※文章は動画のTXTデータです。

 

ゆかりさんと学ぶ哲学用語『否定弁証法』あえて考えを統合しないという選択肢【VOICEROID解説/哲学】

 

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否定弁証法

ところで皆さん、今日の夕食は何にしようかなーと考える時、
外食にするか、出かけるのは面倒だし家で食事するかでよく悩むことはありませんか?
私だったらこの場合、意見Aである外食と意見Bである内食を統合をさせる形で
意見Cとしてデリバリーを頼むという選択肢を取りますかね。

このような相反する事象を統合するような思考プロセスのことを、弁証法と言います。
今の場合だったら、意見Aをテーゼ、意見Bをアンチテーゼとし、これを統合した
意見をジンテーゼと呼びます。
しばしばこのような問題点や矛盾を克服する行為をアウフヘーベンするとも言います。

さて、ここまでヘーゲル弁証法に関する簡単なおさらいでした。

一見ここまで聞いた感じ、聞こえの良い完全無欠の問題解決方法のようにも聞こえてきます。
しかし、このヘーゲル弁証法を疑問視し、
これを否定するような考え方をした哲学者がいました。

その哲学者の名は、テオドール・アドルノ
ドイツの哲学者であり、また作曲家でもありました。
哲学者であるホルクハイマー等とフランクフルト学派を形成し、かつてナチスが政権を獲得
した時にはアメリカに亡命を果たしました。
また、ファシズムスケールと呼ばれるファシズム的人格の強さを測定するために
アドルノ等が作成した質問紙尺度(権威主義的パーソナリティ)の開発者でもあります。

具体的には、1930年におけるファシズムの台頭を受け入れた主な支持層というものを分析
し、まぁ趣旨から外れるので簡単にまとめると思考の柔軟性の欠けたバカどもがファシズムを受け入れたと
言っています。

まぁそれはさておいて。

そんなテオドールの著書の一つに、「否定弁証法」というものがありました。
タイトルの通り、ヘーゲル弁証法を否定する内容の概念ですね。

弁証法は矛盾や問題点を乗り越えて一つに統合しようと試みる論理であったわけですが
、否定弁証法はこれを拒もうと言うのです。

一体どういう事なのでしょうか?

否定弁証法において大事な概念なのは、「非同一的」という考え方です。
単純にこれは物事の「差異」のことを指していると考えていいでしょう

アドルノは、物事が統合されて同一的になっていくよりも、実はむしろ
物事は非同一的なことの方がいいのではないか?
とあえて逆の姿勢を取ってみて転換を試みたわけです。

具体的にはどういうことか?

アドルノによれば、弁証法が前提とする認識や思考というものは、目前の対象と
自らの頭に描く概念の同一化を意味すると言います。
すなわち同一化は、本来異異質で多様であるべきものを都合よく変形させてしまい、
それは対象に対しての概念の強制であり、実質的に暴力であると考えました。

しかし同一化は、普段私達が思考する段階で避けては通れない道なのです、目の前の事象と
自らの言葉の概念を一致しない限りにおいては、
そもそも思考そのものが成立しえないからです、

ではどうすればよいのか?

これらを克服するには、概念の強制をしない同一化という方法とるということになります。
つまりは、「意見を統合しない」ということになります。

意見を統合せず、それぞれに選択肢に可能性の余地を残しておくのです。
意見A+意見B=ジンテーゼ意見C。とするのではなく
意見A+意見B=意見Aor意見Bor意見Cにする。ということですね。

この事から、否定弁証法というのは、物事の普遍的な統合的思考を目指すのではなく
個別の差異を延々と求め続ける思考なのだと分かりました。

ということで今回は、『否定弁証法』についてでした。

弁証法、否定弁証法、いずれもどちらが絶対に正しいというものではなく、
選択肢としてこのような考え方があるなという程度で理解していただければいいと
思います。時に弁証法を取り、時に否定弁証法を取る。
それが哲学の正しい利用の仕方なのだと、私は思います。

 

 

主な参考文献
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