google.com, pub-2973450758561129, DIRECT, f08c47fec0942fa0

ハーシェルの独り言

グラブルや雑談等、しがないぴよっぴよです。

ゆかりさんと学ぶ哲学用語『分析哲学』ウィトゲンシュタインの言語論的転回【VOICEROID解説/哲学】

 

www.nicovideo.jp

 

 

分析哲学

 

はぁ、それにしても殺人的なあつい日々が続きますね。
季節の好き嫌いで言えば夏は比較的好きな部類に入っていたのですが、こうも
例年気温が上がってくると嫌いにもなってきますね。

さて、こうして気温が上がっていき直射日光の多い日々が続きますと必然的に
熱中症で道ばたに倒れる人も出てくることでしょう。
そこで倒れた人をみかけた通りすがりの人達は、余程のことがない限りその人物を
心配し駆け寄ります。

倒れた人が途切れ声で「水、いっぱい」と口にすれば、それを聞いただけで周りの人々は
即座にその意図を理解し、その人物に水をたくさん届けます。

他にも暑さを凌ぐ目的や喉の乾きなどで、手頃な近くのレストラン
などに入る事も多いでしょう。
そこで「水、いっぱい」と言えば、店員さんは即座に意図を
理解し水を『一杯』持ってきてくれるはずです。

これらは実に当たり前に行われるなんてこない日常ですね。

ところで、どちらの例も同じ言葉である「水、いっぱい」という言葉を使っていますが、
水をたくさん持ってくるのか、それとも水を一杯だけ持ってくるのかは同じ言葉でも
状況によって違う事が分かります。

これを更に言い直すとしたら、状況によって言葉のルールが変わっていると言えます。
このように私達は状況に合わせてなんて事もなく発した人の
言葉の意図を理解しています。

このような人々の状況によって異なるルールを持つ生活状況を「生活形式」と呼び、
その生活形式によって用いられる言葉の使い方のルールのことを「言語ゲーム」と呼んだり
します。

言語ゲームという言葉は、オーストリア出身の哲学者。ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン
の著書『哲学探究』の中で現れた概念のことであり、彼は先ほどの例のような生活に
おける様々な言語活動をゲームとして捉えて考えていました。

彼は言語に内包された共通する本質的な意味はなく、その都度の会話の中でしか成立しない
ものだとされ、そしてそれはなんとなく特徴がどこか似ているだけの
同じ苗字を共有する家族のような『家族的類似』と呼ばれるものに過ぎないと言います。

それまでの哲学では、認識したものを言葉で表現するという方法を取っていたので、
このような先に言語を分析する事を主軸とした『分析哲学
という考え方は激的な発想の転換とされ、
この分析哲学の登場は『言語論的転回』と呼ばれることとなりました。

より具体的に言えば、以前の哲学の様々な問題というものは言語にまつわる誤解によって生じる
疑似的な問題であるというウィトゲンシュタインによる指摘と、言語の分析を通じて物事は考察されるべきだという
方法論の採用という要素によって『言語論的転回』は構成されています。

また、この『分析哲学』という言葉が何を意味しているのかについては様々な議論があり、
何かしらの形で言語の意味を解析するのであるから分析哲学とは哲学そのものを指している
と言う学者も多いようです。しかし一般的には
20世紀英米を中心に発展した哲学流派のことを指しており、言語分析によって
真理を探究する立場のことを言うことが多いとされています。


また、ウィトゲンシュタインの考えに影響を受けた学者達による
1920年代に設立された研究サークル『ウィーン学団』によれば、哲学の役割は
真理の発見ではなく、言葉の意味の分析にほかならないとさえ言います。

ちなみによく誤解される事として、分析哲学の話題において必ず引き合いに出される
ウィトゲンシュタインさんですが、このアメリカを中心とする哲学流派には
属しておらず、厳密に言えば分析哲学者ではありません。
しかしその存在は分析哲学においては重要な人物であったことはたしかです。


近年の日本では、この分析哲学の研究が盛んに行われはじめ、主にこれまでの
形而上学の扱ってきた分野に基礎的かつ厳密に分析を行い細かく専門化され、それらは
しばしば従来の形而上学の範疇で論じられてきた
ものであることから『分析形而上学』や『現代形而上学』と呼ばれる事もあるそうですよ。

ということで、今回は『分析哲学』についてでした。
ウィトゲンシュタインの発想は、アメリカを中心とする英米に影響を与え、またその
哲学の奔流は日本の哲学にも影響を与えたんですね。

しかしそうは言っても日本固有の分析哲学史のようなものは未だ少なく、海外の最新論文
の後追いでその問題点を指摘して論文が終わってしまうようなものが典型的なようです。
これはいわゆる日本的な悪癖のようなもので、哲学が一般的に西洋のことを指すとイメージ
されるように、哲学が未だ欧米のような国の所有物であり、私達日本人はそれを学ぶ立場に
あるという感覚が根強いからだと言われています。

これはなにも哲学に限った話ではないですよね、よく聞く話です。
ですが、独自の日本の分析哲学史が完全にないというわけでもなく、日本は日本で
分析哲学そのものは半世紀以上の歴史を持っています。

欧米にないようなオリジナルに展開された日本独自の分析哲学
これから増えて広まり、いつしか日の目を浴びて知られる日が
来ることに期待したいところですね。

 

 

この文章は動画のTXTデータです。